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農林水産技術会議

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国内における研究開発事例を紹介します!(国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 森林バイオ研究センター編)

健やかな生活を支える林業のために~無花粉スギから広がる新しい林業~

無花粉スギを“つくる” には

 前置きが長くなりましたが、無花粉スギが作られる手順を追っていきましょう。
 ゲノム編集は、細胞の中にあるDNAを操作します。では、スギの種子にゲノム編集すれば、そこから生えてくるのは編集済みになるね!というわけにはいきません。植物の種子は、多くの場合、固い殻に守られています。スギも例外ではありません。ゲノム編集をしたいのは、種子の中でも芽になって育つ部分ですが、この部分に種子の状態のまま直接ゲノム編集の操作を行うことは困難です。そこで、種子から取り出した細胞を培養するところから始めます。ところで皆さんは、細胞の培養と聞いて、どのような情景を思い浮かべるでしょうか。医療ドラマやニュースで、ヒト(動物)の細胞が培養されている風景を見たことがある人は少なくないでしょう。バクテリアや菌(真菌)が、寒天などで作られた培地の上にコロニーを作っている風景も、それほど珍しいものではないでしょう。ゲノム編集のためにスギの細胞を培養”する風景は、動物や細菌の培養を見慣れていた筆者にとっては非常に興味深いものでした。

写真 無花粉スギをつくりだす手順

 まず、スギの未熟種子から細胞を取り出して増殖させます。細胞がもりもりと増えて塊(不定胚形成細胞)のようになったところで、CRISPR/Cas9を細胞内で作らせる遺伝子を導入するためにアグロバクテリウムの菌液に浸し、CRISPR/Cas9の遺伝子を細胞内に送り込みゲノムに組み込ませます。そして、導入した遺伝子からCRISPR/Cas9が作られ、ゲノム編集が実行されます。

 この後、細胞塊が不定胚に育つことを促す働きのある、植物ホルモンのアブシジン酸を加えた特殊な培地で育てます。不定胚は、受精を経ずに得られた胚という意味で、写真のように白くて小さな“芽のもと”のような形をしています。この不定胚を植物ホルモンを除いた培地に移すと、あたかも種子から発芽したような芽が生えます。さらに数ヶ月経つと、スギの木らしい姿になります。培養瓶が窮屈になってきたら鉢に植え替えます。さらに背が伸びてきたら、特定網室という、外気との交流はあるものの昆虫など他の生物が入らず、花粉など内部のものが施設の外に出ないような構造の建物に移します。

写真 特定網室で、無花粉形質(生物の持つ性質や特徴)を検証中のスギの穂先。雄花は着いているものの、花粉が形成されていないことを示す七里吉彦・主任研究員

 ここから、望んでいた特性が現れるかどうかを確認していくことになります。無花粉、つまり雄性不稔には、花ができないタイプから花はできても花粉ができないというものまで、いくつかのタイプがあります。今回のゲノム編集では、スポロポレニンという花粉の外壁をつくる成分の合成に関係する遺伝子をゲノム編集することによって、雄花は着いても花粉はできないという変異を起こさせています。花粉の有無は雄花が着いてからでないとわかりません。自然界では成熟して花を着けるまでに20年程度かかりますが、実は意外に早く確認できる方法があります。ジベレリンという植物ホルモンを吹きかけると幼木でも花を着けさせられます。ただし、若いのに無理に花を着けさせたから花粉ができなかったのでは、という疑いもゼロではないので、継続的に着花と花粉形成の状態を観察していきます。

写真

野生型(左)と無花粉スギ(右)の葯の断面。無花粉スギでは花粉が見られません。

 無花粉の特徴が確認されたら、今度は遺伝子組換えで導入したCRISPR/Cas9の遺伝子を取り除くための交配を始めます。無花粉スギでは雄花に花粉はできないので、無花粉スギ(母親)の雌花に、花粉ができる精英樹(父親)の雄花の花粉を付けます。この交配で得られる次世代、「F1」(雑種第一代)には、CRISPR/Cas9の遺伝子は持たずに無花粉スギの変異は受け継いでいる「ヌルセグリガント」になるものがあります。森林バイオ研究センターの研究開発では、今、この「F1」の種子を手に入れたところです。では、この種子を芽生えさせ、ジベレリンを吹きかけて花粉ができなければゲノム編集無花粉スギは完成!となるかというと、そういうわけにはいきません。もうひと手間必要です。
 無花粉形質は潜性で、花粉ができない遺伝子よりも花粉ができる遺伝子の方が表に現れるため、父親の花粉ができる遺伝子を受け継いだ「F1」は、母親から受け継いだ花粉ができない遺伝子を持っているのに花粉ができてしまいます。そこで、今一度掛け合わせることで、無花粉の「F2」(雑種二代)個体を得なければなりません。ただし、スギは他殖なので近交弱性、つまり遺伝的な背景が近いもの同士の交配で表に出ていなかった好ましくない特性が現れることで、場合によっては繁殖しにくくなってしまうという現象を避けなければなりません。そのため、母親・父親違いの「F1」を何種類か用意して掛け合わせ、無花粉でヌルセグリガント、さらに近交弱性が起こっていない「F2」を選抜する必要があります。

「穂先の細胞に直接ゲノム編集を施したい」

 特定網室で七里吉彦・主任研究員が漏らした言葉です。今のゲノム編集の技術でも無花粉スギを作り出すことはできます。ですが、今の方法は、未熟種子から取り出した細胞をもとに不定胚を得て発芽させて無花粉スギを“誕生”させる、というものです。既に育っているスギを計画的に木材として使いつつ、新しく生まれた無花粉スギに置き換えていくのには、膨大な年月が必要です。また、ヌルセグリガントを得るための交配は、手間や時間だけでなく、ゲノム編集を施した個体に備わっていた好ましい特性が受け継がれないリスクもあります。「できることなら、エリートツリーや特定母樹のような優良個体の原木の穂先の細胞に直接ゲノム編集を施したい。しかも、遺伝子組換えを経ずに、直接CRISPR/Cas9を細胞に導入したい。」という言葉は、現在の技術的な課題を象徴するものでした。
 もちろん、これらの課題を放置しているはずがありません。七里吉彦・主任研究員は、膜透過性のペプチドを配合することで、CRISPR/Cas9を細胞に直接送り込む研究を鳥取大学と共同で進めています(※5)。既に、蛍光タンパク質などを細胞に導入する技術検証の実験には成功しています。

身近な存在だからこそ

 ところで、スギ花粉症はなぜ起こるのでしょうか。スギ花粉症はアレルギー性疾患のひとつです。原因や発生のメカニズムは、厚生労働省が公開している「的確な花粉症の治療のために」という冊子(※6)に詳しく書かれており、「“花粉は異物だぞ!”という情報が細胞へ送られてその花粉だけに反応する抗体が症状を起こすのです。」とまとめられています。この花粉から始まるアレルギー症状への流れが一度できてしまうと、花粉に触れる度に症状が起こるようになります。大気汚染物質がアレルギー反応を増強しているという研究もありますが、飛散する花粉の絶対量が多いことが、多くの人をアレルギーで悩ませることにつながっています。そして飛散する花粉の量が増えたのは、わたしたちが増やしてきたからにほかなりません。
 スギは、木材としての優れた特性ゆえに、古墳時代から、食事や生活の道具、農具、船、建築物、家具など、実に様々な用途に用いられてきました。万葉集10巻には、「古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし」という歌があり、奈良時代には既にスギの植林が行われていたことが伺えます。その後、住居や寺社仏閣、城の建築資材として、江戸時代には大火によって失われた家屋再建の資材として、スギ材の需要が高まり、植林が広がりました(※7、※8)。さらに、戦後荒廃した山に、根の張りがよく建築資材として好まれる針葉樹の大規模な植林が積極的に進められ、1950年代後半から60年代のスギの造林は年間15万haにもなりました(※9)。現在、全国1,020万haの人工林のおよそ44%に当たる444万haが、スギの人工林となっています(※10)。世界有数の森林国である日本の森林面積は2,505万ha。これは国土面積の66%に当たるので(※11)、スギ林の面積は国土の約12%を占めていることになります。
 スギ林の面積が増えれば花粉量も増えると推測されます。スギが自然に花を着け始めるのは樹齢20年から30年、植林されたスギが成熟した1970年代以降に花粉症が顕在化しはじめたのは必然だったと言えます。
 花粉症には、対症療法や減感作療法といった治療法もありますが、それで全て解決されるわけでないことは、現在スギ花粉症で悩む人の数を見れば明らかです。そのため、花粉症を防ぎながら、わたしたちの生活に欠かせないスギを利用し続けるために、無花粉スギの開発を進めています。